Tuesday, June 13, 2006

William Hogarth History

ホガース年譜

1697 11月10日、ウィリアム・ホガース、ロンドンのバーソロミュー・クロスという中産階級の住む地区に生まれる。
父リチャード・ホガース(1663/64年生まれ)は学校教師でかなり才能のある古典語学者、無名詩人。母アン・ギボ    ンズ(1661年生まれ)はリチャードが1690年頃、北部からロンドンに上京したときの下宿屋の娘。ウィリアム以前に4    人の早死した子どもがいた。
1703 父リチャードはセイント・ジョーンズ・ゲイトへ引越、そこで家計を助けるためラテン語の会話のできるコーヒーハウスを経営。
ホガースは1712年までグラマー・スクールへ通学。ホガースは近所の画家に興味を持ち、自分もデッサンを描くようにな    る。
1707/8 父リチャードはコーヒーハウスの経営に失敗し破産、フリート債務者監獄に入れられる(当時破産者や返済不能な負債    者は投獄された)。家族はこの間フリート監獄近くのブラック・アンド・ホワイト・コートの居住許可区域に住み、母はそ    の間薬売りをして生計を支える。
1712 9月2日、父リチャードは大赦によりフリート監獄を出獄。家族はロング・レインに移る。
1713 ホガースはグラマー・スクールを中退して、2月2日、エリス・ギャンブル(Ellis Gamble)のもとで彫金師として7年間の徒    弟奉公を送り修業。
イギリスはユトレヒト条約で、スペイン領への奴隷の独占的供給権を得る。
1714 8月12日、アン女王が没し、ハノーヴァー選帝侯ジョージがイギリス国王に即位。
1715 8月22日、作曲家ヘンデル(30)の「水上の音楽」組曲第1番ヘ長調がテムズ川で演奏される。
1717 喫茶店ゴールデン・ライオンが、ロンドンではじめて女性の入店を許可。
1718 5月11日、父リチャード死去。
1719 ダニエル・デフォー著「ロビンソン・クルーソー」刊行。人気を博す。
1720 徒弟奉公の年季が開け、母の実家のロング・レインで銅版画師の店を開業。セント・マーティンズ・レインのヴァンダーバンク    の画塾に入る。
ロンドンで南海会社の株価が暴落、金融市場が混乱。
1721 前年の事件に取材した《南海泡沫事件》および《富くじ》の2点の諷刺版画で注目される。サミュエル・バト    ラーの作『ヒューディブラス』(小判)の銅版画挿絵を制作。
1722/23 ド・ラ・モトレイの『旅行記』、ギルドン『新変身譚』の銅版画挿絵を制作。1720年に宮廷画家となった歴史画    家サー・ジェイムズ・ソーンヒルに出会い、彼が自宅で開いていた無料の画塾に通う。そこで後に妻となるソーンヒルの    一人娘ジェーンに出会う。
1724 2月18日、諷刺版画『仮装舞踏会とオペラ』を自費で出版。
1725 『ヒューディブラス』(大判)の銅版挿絵、ラ・カルブルネード著『カッサンドラ』の銅版挿絵を制作。
1726 トンソンのために『ドン・キホーテ』の銅版挿絵制作(翌年中止)。
    アイルランド生まれの作家スウィフトの「ガリヴァー旅行記」刊行。
1727 この頃から油彩画の制作に熱を入れる。
国王ジョージ1世が大陸旅行中に没し、ジョージ2世が即位する。
1729 下院委員会によりフリート監獄囚人虐待についての調査が行われ、ホガースは獄吏と囚人の対決を傍聴する。
ソーンヒルの娘ジェーンと駆け落ちする(義父は一時ホガースを見捨てるが、後に和解)。
油彩画《乞食オペラ》、また多くの団欒画を制作。
オックスフォード大学でジョン・ウェスリー(26)らがメソディスト運動を起こす。
1730 チャールズ・タウンゼント卿(56)が引退したため、ロバート・ウォルポール(54)が再び首相となる。
1731 《娼婦一代記》の油彩画6枚を制作(1755年消失)。
義父と和解し、夫妻はソーンヒル邸に移り住む。
4月26日、「ロビンソン・クルーソー」を書いた作家ダニエル・デフォー(71)が没。
1732 銅版画『娼婦一代記』(6枚組)、『サラ・マルコム』を出版。
1733 アン王女の結婚を描く許可を得るが、画家のケント卿等に妨害される。レスター・フィールスに家を買い、生涯をそこ    で過ごす。
版画連作『娼婦一代記』の売れ行きは良好、8種類の海賊版に悩まされる。
銅版画『笑う聴衆』、『サザックの縁日』出版。
織工ジョン・ケイ(29)が飛杼を発明し、織布工程を能率化する。イギリスの木綿工業部門での産業革命の発端    となる。
1734 ソーンヒル死去。聖バーソロミュー病院の理事に選出される。
1735 「ビーフステーキ礼賛クラブ」を結成。
5月10日、母死去。
海賊版の取締を訴え、5月15日版画著作権法(「ホガース法」とも呼ばれる)が議会を通過する。
6月3日、本物の「放蕩者一代記」発行以前にその海賊版出回る。
6月26日、「版画著作権法」発効の日、ホガースは『放蕩者一代記』を出版。
コヴェント・ガーデン学院を買い取ってセント・マーティンズ・レイン・アカデミーを設立、職業画家組合、および画家育成の学    校とする。聖バーソロミュー病院の壁画として、《ベテスダの池》、《善きサマリア人》を制作。
1736 銅版画『居眠りする会衆』、『事の前;事の後(2枚組)』、『悩める詩人』出版。
1737 「ディリー・ポスト」紙にソーンヒルの絵画を批判する記事が掲載され、それを擁護する論文(ブリトーフィル)を発表。
1738 銅版画『一日の四つの時』(4枚組)、『納屋で身支度をする旅の女優たち』出版。
1739 トマス・コーラム船長による「捨て子養育院」の設立計画に賛同、その創立理事となる(1741年創設)。
イギリスに紅茶が普及する。
1740 捨て子養育院に、創立者の等身大肖像画と120ポンドを寄付する。
小説家サミュエル・リチャードソン(51)が書簡体小説「バミラ」を発表。
1741 銅版画『怒れる音楽師』出版。
1742 油彩画《当世風結婚》の制作に着手。
約20年間政権の座にあったイギリスのロバート・ウォルポール首相(66)が退陣する。
1743 5月、エングレーヴィングの彫版師を求めにパリに旅行。
銅版画『当世風結婚』の予約申込開始。
銅版画『性格と戯画』出版。
1744 英仏植民地戦争始まり、「当世風結婚」の版画化遅れる。
5月30日、イギリスの詩人・諷刺作家のアレグザンダー・ポープ(56)が没する。
1745 油彩画連作《幸福な結婚》に着手。
銅版画『当世風結婚』(6枚組)出版。
1747 油彩画《ファラオの娘のもとに連れてこられたモーゼ》を制作、捨て子養育院に寄 贈。
銅版画『勤勉と怠惰』(12枚組)出版。
1748 パリ旅行の目的で渡仏するが、カレーでスパイ容疑により逮捕される。油彩画《カレー の門》を制作。
銅版画『ホガース自画像』、『カレーの門/おお!オールド・イングランドのロースト・ビーフよ』出 版。
作家サミュエル・リチャードソン(59)が、長大な書簡体小説「クラリッサ」を発表。
1749 チズィックに別荘を購入。この頃、ホガースの絵画は不評となる。
イギリスの小説家ヘンリ・フィールディング(42)が喜劇小説「トム・ジョーンズ」を発表。
1750 4月30日、油彩画《フィンチレーへの進軍》を版画と一緒に出版。
イギリスの小説家ジョン・クレランドがポルノ小説「ファニー・ヒル、自堕落女の思い出」を発表」。
テムズ川のウェストミンスター橋が完成。
都市化が急激に進行し、ロンドンやパリが大都市として発展する。
自然観の転換がみられ、田園生活が憧憬の対象となる。庭園も17世紀にル・ノー トルが完成した幾何学的なフランス式整形庭園にかわって、18世紀はイギリス式風景 庭園が流行。
1751 銅版画『ビール街;ジン横町』(2枚組)、『残酷の四段階』(4枚組)出版。
油彩画《当世風結婚》を競売にかけるが成績は芳しくなく、わずか120ポ ンド。
イギリス議会が、ユリウス暦を廃してグレゴリオ暦を採用。
1752 芸術論「美の分析」予約申込開始。
銅版画『フェリックスの前で説教するパウロ』、『ファラオの娘のもとに連れてこられた モーゼ』出版。
1753 画家の一部がセント・マーティンズ・レイン・アカデミーを脱退して別のアカデミーの設立を画策、 ホガースはこれに抗議。
11月、「美の分析」出版、国内では概ね好意的(反対論もある)、海外では好評で 12月にドイツ語版が出る。油彩画連作《選挙》の制作に没頭。
銅版画『美の分析』(2枚組)出版。
1755 前年設立された「芸術協会」の委員に選出される。英仏植民地戦争再開。
銅版画『選挙』(4枚組)出版。
イギリスのサミュエル・ジョンソン(46)が、8年がかりのイギリス初の「英語辞典」を刊行。
1756 チジックにある捨て子養育院の寄宿生の監督官となる。
芸術協会の委員会で、美術政策について意見を述べる。
ブリストルの聖メアリ・ラドクリフ教会に三連祭壇画《キリストの昇天》を制作。
イギリスのニューカスル首相が辞任し、デヴォンシャー内閣がなる。ウィリアム・ピット(大ピット、48) が国務大臣に就任し、7年戦争における対フランス戦争を一任される。
1757 芸術協会に失望して脱会。6月、この月死去した義弟ジョン・ソーンヒルの後継者とし て宮廷画家に任命される。
油彩画《喜劇のミューズを描くホガース》を描く。
義母死去。
1758 銅版画『喜劇のミューズを描くホガース』出版。
1759 グロヴナーの依頼で制作した油彩画《ジギスマンダ》を、依頼主が受取を拒否(ホガー スが、前年競売で高額落札した同名のコレッジョの贋作と同額を要求したため)。 サー・ジョシュア・レノルズが「アイドラー」誌でホガースを批判。
銅版画『闘鶏場』出版。
ドイツ生まれの後期バロック音楽の巨匠ジョージ・ヘンデル(74)が没する。バッハとともに バロック音楽を大成し、後半生はイギリスで活躍した。
大英博物館が開館。
1760 4月重病に倒れ、翌年3月まで静養。
10月25日、ジョージ2世(77)が没し、孫のジョージ3世が王位に就く。
1761 ラングフォードで《ジギスマンダ》を展示。
芸術協会脱会メンバーによる展覧会に参加。「芸術家協会」委員に選出される。
「美の分析」イタリア語版出版。
銅版画『鬘の五階位』出版。
7月4日、「パミラ」(1740年)などの書簡体長編小説を書いた18世紀最大のべ ストセラー作家で、近代小説の祖でもあるサミュエル・リチャードソン(72)が没。
マンチェスターとワースリーのあいだにイギリス初の本格的な人工運河、ブリッジウォーター運河が 開通する。スペインとの開戦を主張して、国王ジョージ3世と対立していた国務大臣 ピットが、辞任する。
1762 芸術家協会展に不参加。
諷刺版画『タイムズ1』を発表して専制的なジョージ3世および首相ビュート伯爵支 持を表明したため、「ノース・ブリトン」誌でウィルクスらの攻撃を 受ける。
重病に倒れる。
ニューカスル内閣にかわって、王権の超越を信奉するビュート伯(49)が組閣する。
1763 中風の発作に襲われる。
チャールズ・チャーチル「ウィリアム・ホガースへの書簡」と題する諷刺詩を発表しホガースを非難、 ホガースは銅版画『ボクサー犬』で応酬。
4月7日、ビュート内閣が総辞職する。かわって16日、ジョージ・グレンヴィル(51)が組閣 する。
イギリス下院議員ジョン・ウィルクス(36)の国王誹謗事件が起こる。彼は、国王ジョージ3 世の開院式の勅語を批判したため、不敬罪に問われて拘禁されるが、議員の特 権で釈放される。
1764 遺言状に署名。ベンジャミン・フランクリンから連作版画の制作を依頼されるが、病気が 重く返事を書けない。
10月25日、死去 享年66歳。
11月、チズィックの聖ニコラス教会墓地に埋葬される。

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