Sunday, June 11, 2006

Caricaturist in Britain of the 18th century


ウィリアム・ホガース
William Hogarth(1697-1764)

William Hogarth, the son of Richard Hogarth, a Latin teacher, was born in Smithfield, London, in 1697. Hogarth's father opened a coffee-house in London but the venture was unsuccessful and in 1707 he was confined to Fleet Prison for debt. Hogarth was released five years later during an amnesty.
When Hogarth was sixteen he was apprenticed to Ellis Gamble, a silverplate engraver. By 1720 Hogarth had own business engraving book plates and painting portraits. Around this time Hogarth met the artist, Sir James Thornhill. Impressed by his history paintings, Hogarth made regular visits to Thornhill's free art academy in Covent Garden.
The two men became close friends and Hogarth eventually married Thornhill's daughter, Jane.During the 1720s Hogarth worked for the printseller, Philip Overton. Hogarth also started to produce political satires. In 1726 Hogarth published The Punishments of Lemuel Gulliver, a satire on the prime minister, Robert Walpole.
Hogarth also painted pictures that told a moral story. The first of these, The Harlots Progress (1732), shows the downfall of a country girl at the hands of people living in London. Other examples of this approach included The Rake's Progress) and Industry and Idleness (1747).
By the 1730s Hogarth was an established artist but he suffered from printsellers who used his work without paying royalties. In 1735 Hogarth manages to persuade his friends in Parliament to pass the Engravers' Copyright Act. Later that year, Hogarth established St. Martin's Lane Academy, a guild for professional artists and a school for young artists.
After a period painting portraits of the rich and famous, Hogarth returned in 1751 to producing prints of everyday life. Prints such as Beer Street, Gin Lane and the Four Stages of Cruelty were extremely popular and sold in large numbers.
In The Election Hogarth produced four pictures that illustrated the Oxfordshire parliamentary election of 1754. Taken together, the four paintings show the evolving sequence of events during election day. The first three paintings, Election Entertainment, Canvassing for Votes and The Polling provides details of the type of corruption that took place in 18th century elections. In the final painting, Chairing the Member the winning Tory candidate's supporters celebrate his victory.
In 1762 Hogarth published his anti-war satire The Times. This work upset a large number of MPs and one of the country's leading politicians, John Wilkes attacked Hogarth in his newspaper, The North Briton. Hogarth retaliated by producing his engraving, John Wilkes, Esq.In the engraving Wilkes is wearing a horn-like wig and holds his symbolic cap of liberty in such a way as to make a halo for himself.
Soon after producing his print of Wilkes, Hogarth became seriously ill. In July 1763 he had a paralytic seizure but the following year he started work again and in April, 1764, produced his final print Tailpiece: The Bathos (1764). William Hogarth died on 25th October, 1764.

 今から250年程前、イギリスの首都ロンドンは人口60万の活気ある都市でした。海外との貿易よって世界中から富が集まり、金融経済の中心地として繁栄を謳歌していました。異常な株式ブームが起きるとともに、バブルが弾けて路頭に迷う人も大勢出て、貧富の差が社会問題にもなる時代でした。そうしたロンドンの世相を克明に描いたのがウィリアム・ホガースです。ホガースは豊かな人物描写と社会に対する痛烈な諷刺によって、絵を画くシェイクスピアとも称されています。
 ロンドントのトラファルガー広場の北側に立つナショナル・ギャラリーは、ルネサンスから19世紀印象派までのヨーロッパ絵画の傑作を集めた世界有数の美術館です。ここにはホガースの傑作と言われる『当世風結婚』の油彩シリーズがあります。6枚の絵から成るこの絵画物語は、『娼婦一代記』(1732)、『放蕩者一代記』(1735)に続く一群の戯曲的絵画の中で最高傑作といわれるものです。これは当時の落ちぶれた貴族の財産目当ての政略結婚を諷刺しています。親が財産を目当てに息子や娘に勝手な結婚を押しつけるのは、当時の一般の風潮です。両親の間の持参金の駆け引きから、不義密通を経て不幸な夫婦の死までを描き出しています。ホガースは油彩で描いたこれら絵画物語を銅版画という民衆に浸透しやすい方法で販売しました。『当世風結婚』の最初の場面「結婚の契約」(□□頁図版)は、花婿の父親である伯爵家の応接間での結婚の交渉場面です。父親は花嫁の持参金で傾むきかけた身代を何とか立て直そうという算段です。しかし花婿と花嫁は互いに全くの無関心で、鎖に繋がれている犬がふたりの関係を象徴しています。ホガースは画面にこのような細かい諷刺の種を隅々にまで描き込み-名探偵が虫メガネを覗き推理するように-それを読み解く絵画物語の様式にしたてています。
 現実にイギリスの18世紀は、イギリス小説が最初に花開いた時代です。ホガースが絵筆でしたことを当時の小説家たち-スウィフト(1667-1745)、フィールディング(1707-54)、リチャードソン(1689-1761)そしてスモレット(1721-71)-は同類のことを全て筆でしただけのことです。後のホガース版画の愛読者であり、よき後継者であったチャールズ・ディケンズ(1812−70)も、ホガースと全く同じ様式で小説を書いています。
 ホガースは当初一般の画家と同様に肖像画や家族団樂画から出発しました。しかしこの種の仕事に満足できなかった彼は、新しい独創的な様式の絵画の制作に取り組みます。それはイギリス式の新しいジャンルへの接近を試みたホガース独特の戯曲的諷刺画です。これまでにこのような様式のものとしては、聖書のテクストに基づくキリストの受難や聖人伝といった類いものが古くから教会の壁画などに描かれてきましたが、ホ
ガースの試みたこの様式は絵画として非常に新しく、またその後も特に絵画の様式として発展することもなく、むしろ紙芝居とか4コマ漫画などに引き継がれていった発想の分野です。しかも教会の壁画の場合は牧師が、紙芝居は弁士が物語を語っています。しかしホガースの戯曲的諷刺画は特定の物語に基づいているわけではありませんので、絵それ自体に全てを語らさなければなりません。しかも時間的繋がりのある物語を6枚あるいは8枚という制約されたなかに全てを描き切るわけにはいかず、当然描き切れない欠落する部分が生じてきます。画家には時間的繋がりから漏れてしまった部分を、描いた情景から連想あるいは推理させなければならないというこの様式の難しさがあります。しかしこのことが「暗闇を覗いて想像力を掻き立てさせる」のと同様の効果で、絵を読む者にイメージの広がりを与え、絵画物語の楽しみを倍増さる働きをもたらしています。

 今でも古い町並みを残すロンドンのスミスフィールド[□□頁地図参照]。ここは当時ロンドンいちの家畜市の立つ大広場があり、庶民的な賑わいで活気づいていました。ホガースは1697年11月10日、この地区のバーソロミュー・クロス(Bartholomew Close)にある教会近くに生まれ、ロンドンのあらゆる悪と悲惨とを目撃して少年時代を過ごしました。父親のリチャード・ホガース(1663/64生まれ)はラテン語の教師であり、三文文士でしたが家計を助けるためにコーヒー・ハウスを開店しますが、商売に失敗、一家は借金のために、当時の法律に従い、4年間フリート債務者監獄で生活を送ったこともありました。少年時代から絵が好きだったホガースは、1712年、15歳のとき伯父の世話でセント・マーティンズ・レインに近いクランボーン横町に銀細工の店を開いていたエリス・ギャンブル(Ellis Gamble)の屋根裏美術院の許に弟子入りします。そこで紋章の銅版画を彫ったり、商用名刺の図案、さらに本の挿絵などを彫らされたりして、7年間の徒弟時代を終えると、1720年、母の家ロング・レインで銅版画家として独立します。この年に中南米との取引を一手にしていた南海会社の株が急落、実は背後に政治家が絡んでいたため、事件は一大疑獄事件に発展します。今日のバブル崩壊さながらに多くの地主や商人が資産を失いました。翌年、これを取材した初期の諷刺画『南海泡沫事件』[fig1]を制作し注目されます。車輪の上で打ちのめされている男は物欲が人間の誠実な心を蝕んでいることの諷刺です。
 18世紀の初め、イギリスの演劇界は活気に溢れていました。伝統的な喜劇や悲劇に加え、無言劇や歌謡オペラなどの様々な舞台が庶民の人気を博していました。ホガースは大の芝居好きで楽屋に押しかけて当時の人気役者や脚本家と親しくなるほどでした。ジョン・ゲイの『乞食オペラ』はロンドンの暗黒街を扱った陽気なミュージカルで、空前の大当たりをとった芝居です。ホガースはこれに魅了され、印象的な場面を1枚の絵にして売り出します。芝居が好評を博したようにホガースの作品も好評でした。
 ホガースは1720年にナイト爵位を授与され、王室画家に任命された歴史画家ジェームズ・ソーンヒル卿(1675/76生まれ)に出会い、コヴェント・ガーデンの爵の自宅で開かれていた無料の画塾に通います。そこで後に彼の妻となるひとり娘ジェーン令嬢と知り合います。

 ロンドンの中心部にあるコヴェント・ガーデンは、長い間青物市場があった賑やかな所です。しかし夜ともなると娼婦たちのたまり場でした。コヴェント・ガーデンは都会のまさに悪の巷、中心のようなところでした。コーヒー・ハウスが教会の軒の下にあるような[fig2「一日の四つの時」第1葉 朝]、道徳的にも衛生的にも汚い町でした。ホガースが実際に勉強したのは、この画塾でなくコヴェント・ガーデンの市場においてでした。彼はこうしたロンドンの風俗をテーマに版画のシリーズを創作することを思いたちます。
 『娼婦一代記』は田舎から出て来た娘が女衒の口車に乗られ娼婦に転落していく過程を6枚の銅版画に画いた作品です。ユダヤ人の囲われ者となった娘、それもなが続きせずやがてだれかれ構わず客を取るようなります。あげくのはては感化院へ送られ、ペテン師や女衒たちと一緒に重労働をします。そして何年かして彼女の死。病気は言わずと知れた梅毒です。最後の場面は葬式の日。居並ぶ列席者の中で無心にオモチャで遊んでいる孤児の姿が哀れです。実際に地方から繁栄はしているが悪徳に満ちた都市ロンドンにやって来る人口が大変に多く、身近な問題として女性への誘惑の多い時代でした。不道徳な行為の結末がどんなに悲惨なものであるか、悪徳の様々な姿が実際にどんなものであるかを、事前に若い女性に示すことを意図してホガースは描いています。

 ホガースは商売人としても天才的な才覚の持ち主でした。普通、版画の販売は版画商が中間に立ち当然中間搾取を取られるのですが、ホガースは新聞に大きな広告を出し、前払いの予約を取って、それからこの版画の出来映えがいかに素晴らしいかを期待させるために油彩画の展覧会を開き、その後に版画を売り出しました。版画は物凄く売れたのですが、悩みの種は海賊版が今日知られているだけでも8種類も出回り、当然その海賊版は安くてすぐに売れてしまい、そのことがホガースにとっては許しがたいことでした。ホガースは『娼婦一代記』の人気に気をよくし、柳の下のドジョウを狙った次の連作『放蕩者一代記』を売り出す直前に、版画の下絵・デザインの著作権を保護する法律が制定されるよう下院へ積極的に働きかけます。その結果ようやく今日に通じるような最初の「下絵画家、版画家の所有権を保護する法案」が議会を通過し、1735年5月に立派な「著作権法」を議会で成立さてます。これが後に「ホガース法」とか「版画家法」と称されるものです。こうしてホガースはしっかりと自分の権利を守りました。しかしそれでも展覧会を何度も見に来た連中の中に敵の回しものがいて海賊版が出回ったそうです。

 ロンドンの中心街にコーラム財団遊園地があります。広い庭園はロンドン中の子どもたちの遊び場となっています。ここはかつて孤児を収容する養育院があり、ホガースの時代に作られたものです。当時のロンドンは貧富の差が激しく孤児が激増していました。ホガースは病院や捨て子養育院などの保護施設の建設を提案、実現させこの養育院の理事を務めるなど慈善事業に積極的に参加します。養育院の広間にはホガースの寄贈した絵が飾られています。旧約聖書の指導者モーゼは幼い頃エジプトの王の娘に拾われ育てられました。これを主題にした『ファラオの娘の前に連れて来られたモーゼ』[fig3]は孤児を慰めるとともに人々が少しでも孤児に関心を持つようにとホガースが画いたものです。
 ホガース晩年の版画の傑作、『ジン横町』[fig4]と『ビール街』[fig5]は対になった作品です。ホガースの時代ジンを飲む習慣は重大な社会問題となっていました。ジンが及ぼす様々な害毒を描いたこの版画が出版された1750/51年にはジンの製造を抑える法律が制定されます。これに対してビール街ではビールを飲む習慣が礼賛されています。楽しげに泡だつジョッキを手にした男、看板の文字は「大麦の干し草に健康あれ」、モラリストとしてのホガースの面目躍如たるものがあります。

 ロンドン郊外チジックにホガースを記念する博物館があります。ここはホガースが晩年に過ごした別荘です。彼に仕えた6人の召し使いを描いた肖像画『6人の召使』、一人ひとり生きいきと描かれた召使たち、慈しみに溢れた作品です。そして働く庶民をはつらつと描いた『エビ売りの少女』[fig6]などが飾られてます。
 すでに名声を確立していたホガースは著述にも手を染め、「美の分析」(1753年刊)と題した芸術論を出版します。図版[□□~□□頁]には、彼がイタリアを初め古今の美術品の例をとり、美と優雅さがS字型の曲線にあることを力説しています。

 ホガースは非常に幅広い活動をするとともに、何かに語りかけたい言葉をたくさんもっていた人でした。そのため常に一言多く、批判しなくてもよい対象にまで及んだために敵も大変に多く、晩年は孤独だったと伝られています。
 例えばオランダ美術というのは如何に無粋かという一方で「伯爵の死」の明暗法はレンブラントの影響を受けています。このようにディテールに徹底してこだわるというのはフランドル・オランダ絵画の伝統を引いています。イタリア美術についも「二流のイタリア人がロンドンにやって来ると大家としてもてはやす」のは気にいらないという一方で、「美の分析」において手本としているのはイタリア美術理論です。またイタリア風歴史画を目指す一方で、イタリア絵画というのは格調が高いけれども神話の題材が不倫ばかり描いているとか、『当世風結婚』の第1場面「結婚の契約」の画中画に出てくるように、人が殺され首を切られるといった残虐な場面が多くて暗いなど、本来ほめるべきところを貶しています。
「美の分析」でも批評家のそしりを受けたホガースは晩年の1762年反戦諷刺版画『タイムズⅠ』を出版するなど無謀にも今度は政治闘争に身を投じて、心身ともに衰えていきます。ホガースがそろそろ晩年に近づいた頃、このレスター・フィールズに移ってきたのが画家のレノルズ(1723-92)でした。それは1760年レノルズの全盛時代でした。
 「私の次の仕事は万物の終焉を知ることである」と仲間の者に語った翌日、ホガースが自ら彫った作品は皮肉にも『竜頭蛇尾』[fig7]で、時の神の臨終を描いたものです。この作品でホガースは自らカリカチュアの主人公を演じ、カリカチュアリストとしての一生をこの作品とともに1764年10月25日66歳で生涯を閉じたのです。

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